ミエのカーテン

ももいろクローバーZが好きなピンクのモノノフです

ももクロの、剣とバトンとサイリウム

有安杏果の卒業ライブから明日で一週間。
少しだけ、他の人が書いていらっしゃるブログを拝見するようになりました。

いくつか読んでびっくりしたのは、杏果の人生を肯定し、杏果の心と意思、そして決断に寄り添う想いが散見されたことでした。

わたしにとっては衝撃でした。
これが『モノノフ』か、とすら、錯覚をしました。


実際には、感情を表現しつつ、先を見通す考えを文章するための、論理的思考が可能な賢い方がたどり着く結論が、彼女を肯定する、というところに向かうからなのだろうな、と後から思いましたが。

頭の良い方というのは、究極の所、他人と自分を肯定する力に優れていると思います。
動揺はしても取り乱すことなく、正解を見抜く眼を持った方のことを、聡明、と言うのだと。

聡明さは現代を生き抜く力だから。
生きる力を持った方は、みなさんとても頭が良い。
そして心の芯が前向きです。

傷ついてるはずなのに。


その聡明さは強がりかもしれません。心の内は夜の嵐なのかも知れません。
でも、それを口に出さず、杏果のための言葉を口にする。

その愛は、何よりも正しい、と思いました。

そして、わたしには到底、敵わない在り方だな、と思いました。


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わたしは正しくありません。
これは決して他人の尺度で測った話ではありません。
自分自身の話です。

わたしは今も、自分にとっての正解に辿り着けないまま、今と後ろのことばかりを見て、足がすくんで前に進めないでいます。
杏果の生き方を肯定し、これからの4人を見たい、という出口は見えているのに、行き方がわからなくてずっと迷路に居ます。

ほんとうはまだ多くの方がそうであるはずなのに。
わたしは最も遠い最後尾に居る気がしていて。


先の見えない迷路の中で、弱音ばかりを吐いています。
サイリウムは手放さない、という決意をライブ直後の最初に決めておかなかったら、あっという間に脱落していたと思います。

他の人はなんでこんな弱さ辛さを言葉にしないでいられるのか、ちょっと不思議になりました。
これは単にわたしが直情的で弱いだけじゃない気がする、と。

それを友達に打ち明けたら、
「ライブが終わった後、周りを眺めてた。モノノフもモノノフじゃない人も。いろんな人が居たよ。みんな、それぞれのやり方で心を守っているんだと思った。たぶん」
と言っていました。

この人もまた、賢い人だな、と思いました。


わたしは、自分を守る力が足りない人間なのかもしれません。
なんて非力なんだろう、と思います。
裸で戦場に取り残されている気持ちです。

はるか遠くで勇猛果敢に戦い、勝ち進んでいく4人の女の子たちと、それに鼓舞されながら、勝利にしがみつく生命力を持った『モノノフ』たちを、ぽつんと眺めている感じです。

自分を守る力の乏しいわたしは、戦場に向いていないのかもしれません。


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わたしは今までも、ももクロのライブで毎回と言っていいほど泣いてきました。
その心の作用がよくわからないまま、泣いてきました。
泣き崩れて立っていられない時もありました。

ただただ、痛かったんだと思います。

だいすきなあーりんと同じピンク色の防具を着ていたはずなのに、サイリウムという武器を持っているはずなのに、それが役に立たない時も多々ありました。
特に、ライブで聴くバラード全般と行く春来る春、そしてLink Linkでは、サイリウムの灯りを消していました。
その理由を何故なのかうまく説明できずに居たのですが、今にして思えば、迷いがあったんだと思います。

迷いの中では、自分の灯りがむしろ邪魔でした。
だから5人の輝きに目をこらすことで、助けを乞うていた気がします。


そして、その迷いが形となって現れたのが、桃神祭2016 の時でした。

あの時から、わたしはピンク色の防具をほとんど身につけていません。

代わりに、白を着るようになりました。
その理由はいろいろ言っていたと思います。

「暗闇でサイリウムのピンクをいちばん反射するのが白だから」
「ピンクを着るのは、ステージ上のあーりんだけでいいと思ったから」

どれも本当の理由です。
どのみち気持ち悪い拗らせオタクの発想ですが。

そして今回のことで、自分で気づいていなかった理由を見つけました。

「わたしにはピンクを着る資格が無い」

そういう自己否定が、根幹にありました。

桃神祭2016 の頃、自分の生活に大きな変化があり、その頃すでに、ももクロに着いていく気力を失いつつありました。
疲弊し、すり切れて摩耗した心で、身体を引きずりながらしがみつくように、時には友人たちに強引に腕を引っ張ってもらう形で、ライブに行くようになっていました。

無理だ、と何度も何度も思いました。

輝く5人を見るのは眼が痛い。心が痛い。
そんな感情の悲鳴が、涙だったのだと思います。

それでも5人はわたしにとって特効薬でした。
恐ろしいほどによく効く、限りなく依存性の高い薬でした。良くも悪くも。

そんな風に5人の女の子にすがる自分を、いつしか認められなくなっていきました。
だからピンク色を着ることに抵抗感が生まれていたのだと思います。
応援のために推すのでは無く、明らかにすがっている自分が、許せなくなっていたのだと。


そして、その特効薬が無くなってしまった恐怖が、今の虚無感の大きな要因のようです。


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先の記事でも書きましたが、わたしはももクロをファンタジーだと思っていました。
例えて言うなら、ももいろクローバーZという名前のプリキュアを見ていた感じです。

でも5人は、生身の女の子でした。
いつか終わる、のではなく、いつでも辞めていつでも終えることができてしまう、「アイドルという仕事」をしている女の子たちでした。

それがわかった時、彼女たちはほんとうに別次元の存在だという、完全な隔たりにようやく気付きました。
人間ではない人間を見つけてしまった気持ちでした。
だってあの笑顔が、輝きが、本当に現実に存在するものだなんて。
わけがわからなくなりました。

スーパースターというのは、こういうものなんでしょうか?

この衝撃に当てはまる言葉が見つからなくて、思考停止をしてしまいます。


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話を「戦場」のくだりまで戻します。

戦場に向いていないわたしは、はっきりとではないですが、今までもそれなりに自分で、その「向いて無さ」を感覚的に理解していたのだと思います。
自然と、「言葉での表現」を多く行って来ました。

時には強い怒りを、時には弱音を、喜びを、痛みを、苦しさを、救いを、希望を、その時々で愚直に言葉にしてきた気がします。

わたしは馬鹿正直な人間ですが、嘘もつきます。
でも、ももクロのことに関しては、どうしても嘘をつくことができません。
嘘をつけないからこそ、間違ったことを言います。

わたしにとっての正しさは、誰かにとっての間違いです。

戦場では、自分の正しさを信じて剣を振るうしかありません。
勝つために必要なのは、技量の次に、自分が生き残ることへの迷いの無さ、だと思います。

現代では、技量=賢さ、だと思っています。
賢く、迷わない人が生き残る世界。

言葉は、自分を生かす手段であり道具であるからこそ、愚かで迷いだらけのわたしは、とても弱い。


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あーりんが、杏果の卒業発表後に、5人の中で先陣を切って書いた1月19日のブログで、言っていました。

「なんの迷いもないよ。」と。

彼女の賢さ、強さ、しなやかさ、優しさ、やわらかさ、美しさ、そういったものが凝縮された一言だったと思います。


わたしは2017年の12月頃、まだ先月のことですが、ピンクのサイリウムを持つことへの迷いがピークだった頃があります。

それでも、ももクロが好きだったから、ももクロの核である百田夏菜子の赤を持つしかないのでは、という迷路に居ました。
ももクロの地盤である、紫色に惹かれた瞬間もありました。
ほんと、いつも迷路に居る人間だと思います。

その迷路で、あーりんの一言は、出口はこっちでしょ何やってんのー? と、呼ぶ声でした。

救われました。
救われましたが、救われて良いのか、という、今までに無かった迷いが生まれました。

わたしはもう、ももクロにすがりたくない。
救いを彼女たちに求めたくない。
この期に及んで救いを求める自分が許せない。
だって杏果は行ってしまった。
何が杏果をそうさせたのかは分からないまま、行ってしまった。


最後の杏果の言葉で、特に受け入れられなかった言葉が3つあります。

「(新曲を)私のため "だけに" ありがとう」
「こうするしかなかった」
「4人をよろしくお願いします」

1つ目は疑問。

私のため "だけに" って、杏果のためだけじゃないでしょ?
みんなの杏果への気持ちを供養するためでもあるでしょう?

2つ目は悲しみ。

こうするしかなかった、って、なんで?
こうするしかなくなる前に、なんで別の方法を選んでくれなかったの?

3つ目は怒り。

4人をよろしくお願いします?
なんで去る人が堂々とそれを言えるの?
言われなくてもそうするよ!


受け入れられ無さの内訳は、こんなところでしょうか。


杏果が行ってしまったことを受け入れられないまま歩みを進めるのは、杏果への裏切りな気がして、わたしは動けないでいます。

こんなわたしを、誰かどうか、間違っていると言って欲しい。
わたしの間違いを、誰かの正論で正して欲しい。

骨の髄から他力本願な、そんな気持ちで居ます。


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そんな中、昨日は十日ぶりに、わたしのだいすきな曲、「空のカーテン」を聴きました。

杏果が居なくなったことで意味の変わってしまった歌詞に、切なく苦しくなりながら、それでも好きで、聴きたくて、聴きました。

だいすきなこの歌の意味が変わってしまったことを、もっと恨めしく感じるのだと思いながら聴き始めたら、実際はそうではありませんでした。

空のカーテンの、わたしの大好きな一節。

「バトン握って 私は今ここだ」

それを聴いて、ふと思いました。


サイリウムは、杏果から受け取ったバトンなのかもしれない。


杏果は裏切ってなんかいない。
あれは裏切りでも何でも無い。
自分が杏果への気持ちの整理のつかないまま進むことも、裏切りではない。

4人をよろしくお願いします。

そう言って杏果がわたしたちに手渡したものがあるとしたら、それはもう既に手に持っているこのサイリウムなのかもしれない。


サイリウムは武器だとばかり思っていました。
だからずっと苦しかった。

武器は自分を守る代わりに人を傷つける。
武器なんか要らない。
守る鎧も要らない。

そんなふうに、丸腰で泣いていた気がします。

最初はただただ、嬉しくて楽しくて熱狂して飛び込んだ、ももいろクローバーZという世界で、どんどん加速していく世界で、膨大な人の波に呑まれ、混沌としていく渦の中でいつしかわたしは、剣と鎧無しに生き残れなくなって、そんな自分がいやで。
何にも持ちたくない、何も身につけたくない、こんなのわたしじゃない。

そんなふうに、自分を見失っていた気がします。

でも、サイリウムが武器ではなくバトンであるなら。
意味が、全く新しいものへと変わっていく。

変わることを恐れていた先にあったのは、優しい意味でした。
その優しさで、ピンクのサイリウムを持ちながら、もう少し迷路を行ったり来たりうろうろすることを、自分に許せる気がしました。

こっちだよ、と、4人が呼ぶ声の方角に、壁に頭をぶつけながら、曲がり道を間違えながら、のろのろと、向かっていける気がしました。



「大丈夫さ行き止まり そんときゃ引き返してまた始めればいい」







最後まで読んでくださった方。

歩みの遅い、愚鈍極まりないわたしの散文にお付き合いいただいて、ありがとうございました。